Jammers Net Concept
  

SCENE 5
ニューズレター

2018年9月

2018年8月18日、県内外からの約30人の参加者とともに、「『米騒動』100年プロジェクト」の「シーン5」の集いを行った。
 最初に、当日の進行から、これまでの「100年プロジェクト」の論議の中での「シーン5」の集いの位置づけや、「プロジェクト」を進めようとする際に考えていたこと、当日の進め方等についての説明があった。
 次に、社会の「底辺」を生きる女性たちが自分の傍らの「弱者」を抱きしめる姿を描いた劇作家・秋元松代さんの戯曲や、1963年11月に起きた三池炭鉱CO(一酸化炭素)中毒事故の「患者家族の会」の松尾蕙虹さんの闘い、また、悲しみと無念の〈生〉のはてに「悲願の世」を求める水俣病の患者さんたちの姿を描き出した石牟礼道子さんの「立ち姿」に触れながら、「生・労働・運動ネット富山」のメンバーが「報告」を行った。その「報告」の中で、日本の近代化の暴力が穿(うが)つ社会の「亀裂」の底に自身も身を置きながら、その「亀裂」の底でうめき、苦闘してきた者たちの傍らに立ち続け、抱きしめる「修羅の女たち」の姿を深く捉え返すことが試みられた。
 最後に、その「報告」を受けて参加者同士で活発な「フリートーク」が行われた。「フリートーク」では、60年の「三池闘争」を果敢に闘った三池労組が、当初松尾さんらが裁判闘争に踏み切ることに反対し、その後、三池労組が組織したCO中毒事故の「マンモス訴訟」の原告団に加わることを拒否した松尾さんを敵視・排斥したことが言及されていた。そのように、「統一と団結」を軸とする労働組合の戦闘性は、松尾さんの場合のようなその枠外の「闘い」への敵対に転じてしまうという限界をもつものではないか、という発言があった。その発言を受けて、そうした三池労組のあり方は、裁判闘争で松尾さんがCO中毒患者の夫を抱える妻への「慰謝料」を要求したことを、労働現場を越えた「再生産労働」の闘いとして捉えるような視点が欠落していることの反映ではないか、という指摘もあった。
 また、今回の「フリートーク」では、CO中毒事故の「患者家族の会」として裁判闘争を闘った松尾さんと石牟礼さんのような「表現者」が、同一の平面で取り上げられていることへのとまどいや、石牟礼さんの「表現」行為よりも松尾さんらの「闘い」の方に共感するという意見が出されていた。それらに対して、むしろ、秋元松代さんの戯曲中の人物と、松尾さんらの闘い、水俣病患者さんたちに寄り添う石牟礼さんの姿といった異質な三つが同時に存在することで成立する「世界像」を受け止めたいし、事実、秋元さん、松尾さん、石牟礼さんの3人は、日本の近代化の矛盾・「亀裂」が大きく露呈した70年代初頭という時期に、共通の課題を分かち合う者同士として互いの存在を意識し、出会っていることを忘れてはならないだろう、という発言があった。
   以下、「シーン5」の「報告」を中心に報告する。

ニューズレター SCENE5 PDF版

はじめに

今年2018年は、『米騒動』から100年にあたります。
私たち「生・労働・運動ネット富山」は、「『米騒動』100年プロジェクト」として、今年4月から毎月1回のペースで連続企画を行ってきました。その企画は、それぞれが別個のものではなく、互いにつながりあって、ひとつの大きな流れの中にあるものです。
今回のこの「SCENE5」の集いも、そのひとつにあたります。今日は、最初に、この「『米騒動』100年プロジェクト」の開催に到るまでの経緯や、これまでの「100年プロジェクト」の論議の流れを紹介します。その中で、僕自身の経験や、「100年プロジェクト」に取り組もうとする際の思いについても、自分自身のことばでお話したいと思います。

僕が社会的なことに関心を持ち始めたのは80年代初頭の頃で、当時、僕は学生で、〈68〉年の「全共闘運動」のなごりがかすかに残っていた大学の学生寮で暮らしていたときでした。その寮での自治会活動で寮の先輩から聞いたことばが、「この社会というものは、変えることができできるんだよ。そういう発想に立つことが大事だよ」ということでした。今までそんなことを考えたことがなかったので、そのことばは、自分にとってとても新鮮で刺激的でした。
〈68〉年の記録映画などの影響があったと思うのですが、そのころ僕が夢見ていたのは、大規模なデモンストレーションで街中に人があふれ、街のあちこちで人々が政治や社会のことを熱く語り合うという、そんな風景でした。

しかし今は、お互いにそんな夢や希望を語ることがほとんどないし、とてもじゃないが、そんなことにはほど遠いなと思ってしまいます。しかし、やはり、そういう夢や希望をもちたいですよね。
能登から原発をどうやったらなくせるか?辺野古での新基地建設をどうしたら止められるか?安倍政権をどうしたら倒せるか?高齢者が当事者となって介護保険を撤回させるにはどうするか?あるいは、私たち日本人が、アジアの人々とともにどうしたら日本国家にこれまでのアジアへの侵略に対する謝罪や補償をさせることができるか?
街のあちこちでそんな熱い議論が巻き起こっている風景。そのような夢や希望をやっぱり本当に持ちたいと思います。
「社会を大きく変える」ということを、「大きな物語」と名付けるとしたら、今はそのような「大きな物語り」を語る場がないし、もっと言えばそれを語ることば自体をもたない、もてない時代なのではないでしょうか。

もちろん、すでに80年代のそのころから「大きな物語」はなかったなと感じています。既成政党や労働組合はそのころまだなんとか存在していましたし、総評・社会党ブロックがまだ機能していたころです。また、新左翼諸党派の全国政治闘争もありましたが、自分としてはそういうものにどうもリアリティがもてないし、そうした「政治主義」といったものに対して親近感がもてなかったのです。そのころの自分の欲求は、「『自分が何をしたいか?どう生きたいか?』をなんとかつかみたい。そのためには自分をこれまで規定してきたし、現在も規定しようとする制約から自分を解き放ちたい」ということでした。
今、自分が存在し、生きる場があり、そこで自分が変わること。「生きている」と実感できると同時に豊かな関係の場であること。  そうした場をどのように創り出すかということにこそ、自分はリアリティを感じていました。そのような場を創り出し、自治していくということが、まさに新しい社会の「創造」や「実験」の試みですが、それに向けて取り組むということが、これまで僕が目指してきたことです。
そのスタンスは今も変わりません。
そして、2018年になってからは、「『米騒動』100年プロジェクト」の準備に取り組んできました。
最初は、この機会に何かひと騒動起こせないか?と考えていたのです。しかし準備の途中から、『米騒動』を今、振り返るということだけでなく、歴史には載らない「小さな物語」かもしれませんが、その後の100年の間のいろんな人々の社会的な運動をたどってみたい、と思うようになりました。
そのような「小さな物語」をたどることは、その記憶をもう一度現代に呼び出すことです。そして、それは想像力を豊かに膨らませることにもなります。今考えてみると、過去に起こったそれぞれ別々の運動が、実はこういうつながりや関連があるかもしれない、と想像してみることもあるでしょう。
そんな「小さな物語」を紡ぐことによって、新たに「大きな物語」が描けるかもしれない。いや、すぐに描けないかもしれないが、「大きな物語り」を描くための「ことば」がたくさん見つかるかもしれない。また、「大きな物語」をつくるための、それを推し進めようとする「力」をもらえるかもしれない。そう思うようになりました。
そのようにしてたどってきた「小さな物語」のそれぞれがどんなものだったかを語るには、今は時間がありません。ただ、それをひとことで言うならば、「100年プロジェクト」のリーフレットにもありますように、「食を求め、土を、島を守り、山(炭坑)に生き、寄せ場で闘い、路上の果てを生き、アンダークラスの底を這い、放射能にまみれながら生きる」人々の軌跡ということです。そのように、人々がそれぞれの〈生〉を営み、自らの〈生〉を破壊しようとするものに抗いながら、政党や組織に指導されることなく生み出されてきたそうした「闘い」は、その中で人々が自分たちの生きる上での〈根〉のようなものを見出し、それを新たな価値として示すことにつながったと思います。
その100年にわたる「小さな物語」の中で、ひとつだけ今ここで紹介したいのが、〈68〉年の闘いです。2018年の今年は、〈68〉年から50年でもあります。〈68〉年の闘いを大きく広くとらえると、各地の大学全共闘運動はもちろんそうですし、その前後の時期に、それに応答し、連動として出現した様々な社会運動を含めて〈68〉年と捉えることができると思います。障害者や女性などの反差別の闘いや、各地で繰り広げられた「反公害・反開発」の住民運動もそうです。
それらの運動は、それまで政党や労働組合が描いてきた社会変革への道筋が、人々にとって、もうリアリティを持てないものであることをはっきりと示すものだったと思います。そのように、従来の社会変革の「範型」というものを突き崩すことになったという意味で、〈68〉年は、この100年の社会運動の中でもとくに大きな意義をもつものであり、「分水嶺」となるものです。
〈68〉年についてはいろいろなことが言えると思いますが、今日のテーマに即して強調したいことは、それは、「近代化」に対する大きな「問いかけ」であったということです。さらに言えば、「近代化」ということが、果たして全面的に肯定されるべきことなのか?ということです。大学が「産学共同」路線への道を走りだし、大学を卒業することで国家や資本が「近代化」を進めるその先頭に自分が立つということに大きな疑問を抱き、問いかけたのは、大学で「全共闘」運動を闘う学生たちでした。また、日本各地に拡がった「反公害・反開発」の地域住民運動も「近代化」を問い直すものでした。
その住民運動で人びとが守りたかったものとは、地域の人々の相互の関係であると同時に、自然との関係であり、その地域で営まれている人々の暮らしや価値観でした。それに対して、「住民のエゴだ」、「地域の発展・繁栄を妨げる『非国民』だ」、「科学を信じない愚か者だ」とか言われながら、自分たちの〈生〉が破壊されることに怒り、抗い、闘ってきたのです。
僕の記憶では、そうしたあり方を体現するのが、能登原発現地の志賀町に住む橋のばあちゃんであり、その存在のあり方のすべてが、地域で〈生〉を営むということの価値を表していると思います。あるいは、僕が学生のころ何度か通った三里塚で、新空港建設反対闘争を最後まで闘った大木よねさんの「とうそうせんげん」の中のことばが、そうしたあり方を象徴しています。
そのように、人々が切実に守ろうとしたのものが、闘いを通じて鮮明に輝くようになることで、それが、この社会の未来のありようを指し示すようなものとして現れたのではないかと思います。

最後に、今日のテーマについて少しだけ言えば、それは、これまでの「プロジェクト」を通じて、この100年の「小さな物語」をたどってきた論議の道筋に、さらに深みをもたせるものだと思います。それこそ、女・たちが生きる上で何を自分の一番大事なものとして守ろうとしてきたのか、をめぐる「物語」です。「近代化」がこの列島社会のいたるところに生み出してきた「亀裂」の中に自らも身を置きながら、傍らにいる者たちを抱き続けてきた女・たちの「物語」、題して「修羅の女の長い列」です。 前置きが長くなってしまいましたが、それでは、この後の「報告」をお聞きください。

SCENE5 動画

 

SCENE5 修羅の女の長い列

はじめに

私は、これから、「修羅の女の長い列」と題して話します。秋元松代さん、松尾蕙虹さん、石牟礼道子さんにふれて話そうと思います。実はこの3人の女性は、1970年前後に確かに〈ふれあっていた〉のです。
この当時は、日本の近代があらわにもっている残酷さ、苛酷さが、日本列島社会において次々と明らかになっていったときです。近代のまさに「負」が凝集して現れた時期でした。そういうときだったからこそ、この3人の女性が〈ふれあった〉のです。
劇作家の秋元松代さん、三池のCO中毒患者家族の松尾蕙虹さん、水俣の石牟礼道子さんの3人が、まさに近代というものが穿った深い亀裂を前にして、確かに〈ふれあっていた〉ということに基づいて、今日の話を進めていきたいと思います。
話すことがとても下手くそでつたない限りですが、どうかお付き合い願えたら、と思います。

この列島を洗った、近代という大きな大きな波。その波が、この列島に穿った亀裂は深く、その亀裂の底で、喘ぎ、悲しみ、苦闘してきた人たちは数知れない。そのかたわらにあって、その人たちとともに生き、その人たちの傷をともに負いつづけてきた女・たちがいる。
それはときには、演劇やドラマによって形象化され表現されてきた。その一方で、その女であることじたいを、まさに自分の生きる身体でもって生き抜こうとした女・たちもいる。
そういう女・たちが、たしかに〈交錯〉しあった時期があります。1960年代末から70年代初期、高度経済成長のまっただ中で、おびただしい悲劇が生み出されていった、そのときです。
日本の土俗信仰、前近代的なものを掘り起こし、それが近代を超えていく契機になればと考え、いくつもの演劇の台本、ドラマのシナリオを生み出していった秋元松代さん。1972年1月2日、石牟礼道子さんが水俣病の患者さんとともに東京・チッソ本社前で座り込みを続けるそのなかに、ひっそりと身を置いた。
三井三池闘争の敗北後の、三井三池炭鉱三川鉱炭塵爆発事故。被害を小さく小さく見せようとする三井鉱山に対して、「泣き寝入りばしたくなかとですたい!」と声をあげ、妻への慰謝料を求め続けた松尾蕙虹さん。1969年からの水俣病裁判の傍聴に、毎回通い続けます。
水俣病患者さんの「生」を無条件に肯定し続けた石牟礼道子さんは、著書『花びら供養』のなかで、「水俣の問題は、この国の近代の暗部を全部ひっくり返して見なければならない」と書いています。
それぞれが〈交錯〉したその場所から、この列島の底部に刻まれてきたひとすじの女たちの列、修羅の女の長い列が浮かびあがってきます。

修羅の女の長い列

修羅の女、それは列島の底で
     長い長い列をなしている女たち
修羅の女、それは列島社会の亀裂に落ちた者を
     抱きしめ、抱きしめ修羅場を闘い、生きる女たち
修羅の女、それは限りなくおろおろと「悶え神」に
     近づきながら、限りなくそこから遠ざかり、
     聖者であることを拒む女たち
修羅の女、それは見殺されるのを承知で敗者を
     抱きしめ、見殺されるのを承知で勝者の
     喉首に喰らいつく女たち
修羅の女、それは耳をすませば、今も列島底部に
     その所作・声がECHOとして流れる女たち
修羅の女、その名は、あるいは「三國屋おなみ」、あるいは・・・・・

修羅を生きた女・たち。私は、遠い歴史の奥の女・たちの姿を探りたい。女・たちの呼び声を聴きたい。

Ⅰ.  秋元松代さん 『三國屋おなみ』

私が、秋元松代さんという人を知ったのは、今から7年前でした。2011年3・11/12〈後〉の夏に、仲間のひとりが一冊の秋元松代さんの文庫本を手渡してくれました。
そのころの私は、おびただしい喪失の果てに、それでもなお胸にこみあげてくる熱いものもあり、それは、〈私・たちの未生の言葉〉への渇望のようなものでした。そして、なにもかもがうそっぽい世の中だけれども,どこかに人の美しい心や美しい言葉が、まだどこかにあるのではないか。そう思いたい!という気持ちに、とても駆られていました。
そんなとき、秋元松代さんというひとりの女性の、どこまでも凜としたこころばえのようなものにふれて、とてもうれしかったのを覚えています。

1911年(明治44年)生まれの劇作家・秋元松代さんは、まさに「劇作家・秋元松代」を生きることじたいが闘いだった人です。愛をもとめる渇きと深い孤独感と絶望に身をよじりながらも、純な澄んだ作品を書きたいと思いつづけて、覚悟深く、清冽な流れのように生きた女性です。ゆがませられ、はずかしめられても、それでも侵されないその生きる姿の純粋なもの、無垢なものを、歯を食いしばって描きとめようとしてきた人です。
これからしばらく、そんな秋元松代さんの作品を手がかりにして、少しお話しさせていただきたいと思います。

最初にとりあげたいのは、「三國屋おなみ」です。
「三國屋おなみ」は、初めは朝日放送のラジオドラマ「流し雛」として、1967年3月に放送されました。後に、NHKのテレビドラマの脚本として書き改められて、1967年5月に放送されました。
背景にエネルギー政策の転換にともなう、ずっと続く廃鉱・閉山があります。
「三國屋おなみ」とは、流浪する遊女たちの総称です。ドラマでは、たまと妙秀尼と、予備学生・真一郎の恋人の3人が「三國屋おなみ」です。これに、閉山した鉱業所の坑夫と妻たちを配して、過去の失われた恋と、当時の厳しい時代を生きる、不安に揺らぐ恋のせつなさが描かれています。

Ⅰ―1. あらすじ

南朝の血を引くと伝えられている、鳥取地方の山間の小さな村落が舞台になっています。
鉄橋を渡っていくつものカーブを徐行しながらゆく汽動車。うめ、ふじ、きくが乗っています。鳥居孝一郎も同乗しています。駅員のいない小さな終着駅で、3人の女たちと鳥居が下車します。
東京から訪ねてきた鳥居孝一郎の息子は、戦争末期に松山航空隊に海軍予備学生として入隊していたのですが、「三國屋おなみ」という女性と隊から脱走し、行方不明になりました。沢井たまが「三國屋おなみ」であったことを調べあげた鳥居は、息子の最後の消息を尋ねにきたのでした。
そこへ、役場の浜崎が、夫が失踪したと言って生活保護を「不正」に受給しているらしい3人の元・坑夫の妻たちを探して、事実確認の調査のためにバイクで乗り込んできます。汚なく貧しげな老女、庵主さんの妙秀尼も、ときどきその村の檀家まわりをしています。
元・坑夫の3人の男たちは、行方不明をよそおって山に隠れて闇の炭を焼いていましたが、とうとうこの日、営林署に嗅ぎ付けられ、やっとの思いで逃げてきます。その妻たちは、沢井たまの配慮で、時折彼女の家の納屋で人目をしのんで再会していて、今日も久しぶりに夫と逢うために、たまの家の納屋に来たのでした。
とうとう浜崎が、納屋があやしいと嗅ぎ付けて、なかを見せろ!と迫ります。それをとっさに身を張ってくい止め、浜崎を追い返したのは、妙秀尼・もうひとりの「三國屋おなみ」だったのです。
この納屋に、たったいま幽霊が出て、それはそれは恐ろしい。いま、ご供養のさまたげをすれば、必ずや幽霊のたたりがある!と。迫真の演技で、浜崎を震えあがらせて。
「三國屋おなみ」、それは個人の名前ではなく、昔からあった、流れ者の、身を落とした女の呼び名であったことが明らかになるにつれ、21年前の過去は遥かな奥行きを帯びてゆきます。
たまが、言います。
『きいてかあさい。「三國屋おなみ」という女は、私だけではありませんけぇ。‥‥私のほかにも、同じ名前のおなご衆がなん人と知れずおりましたけ。‥‥私のような境涯の女たちは、たんとおりました。ずっと昔から、「三國屋おなみ」はおりましたそうな。』
鳥取地方には、古くから伝わる「流し雛」の風習があるそうです。小さな谷川の岸辺の場面は、美しく哀切な情景です。
たまが、ふくさ包みから木で作った小さな舟をふたつ取り出して、和紙の小さな雛人形を載せます。
『わたしらは、流し雛ということをいたします。かなしい思い出を雛にもっていってもらいますのです。』 たまは、一枚の小さな写真を雛に添えます。
『この人も、どんなに帰りたかったかしれんと思います。でも、うちがいつまでも待っておっては、かえってこの人もかなしゅうございましょう。』
鳥居も、最愛の息子・真一郎の写真を雛に添えて、ふたり、雛の小舟を流れに放ちます。
翌朝の駅。名古屋の友人を頼って村を出る、沢井たま。仕事を求めて大阪に行くという夫たちを見送ったうめ、ふじ、きくも汽動車に乗り込みます。「父ちゃんが、あんたによろしうと言うとったですわ」という言葉を添えて。それぞれの想いをのせた汽動車が遠ざかります。

Ⅰ―2. 名づけられるものが名づけ返すとき

静かな余韻のなかに、悲愁の深い情愛が流れて、心に残る美しい作品です。
3人の女たち、うめ、ふじ、きくは、小さな終着駅でともに下車した鳥居を、役所の人間かもしれないと警戒して、わざと難儀な登りの谷道を行きます。
なんにもいらない ほしくない あなたがいればしあわせよ わたしの願いは ただひとつ あなただけがほしいのよ 骨まで 骨まで骨まで愛してほしいのよぅ♪♪♪(クリックすると音が出ます)
貧しさに喘ぐ暮らしのなかにあっても、彼女たちは底抜けて朗々としています。久しぶりに愛しい男に逢える!「うちらは女盛りやけぇ!」とばかりに、笑いころげる彼女たち。そんな彼女たちを、さらりとかくまいつづけてきた、沢井たま。ただ愛しい人を待ちつづける心のために、いちずな情愛で今日まで凜然と生きてきたのでした。生家の貧しさゆえの悲しみを背負って、故郷を出た、「三國屋おなみ」と呼ばれた女たち。逃げ帰る手がかりのすべてを閉ざされて、見つけられればひどいめにあう。女たちが生きていた絶望的な日々のなかで、それでも人を恋い、愛に苦しんできた人生を想います。
貧しい村落で、ずっとさげすまされてきただろう庵主さんの妙秀尼は、おなじ「三國屋おなみ」である年下のたまのことを、ずっと気にかけてきたのだと思います。『ごめん‥‥たまさん、おらるるかの。あがらしてもらいましょう。』という、いつものセリフで。
たまが、3組の男女を最後までかくまいつづけようとする。そのたまがやろうとしていることは、自分もやろうとすることだ。そこに、自分の誇りを賭ける。「三國屋おなみ」として自分をふるいたたせて、3組の男女を身を張って守りぬく。薄汚いぼろを着ていても、『お前らのような流れ者の女郎なんぞ』と浜崎に口汚く言われようとも。『わしに説教する気か。なんじゃお前は。そんな抹香くさい姿しとっても、昔はなんじゃい。「三國屋おなみ」のくせに!』とののしる浜崎に、妙秀尼は返します。『「おなみ」ですまなんだな。けど、あんたのごひいきは受けとらんけぇ。』
女たちは、みずからの名前を捨てさせられた。そして、「三國屋おなみ」と名づけられた。そうしていま、名づけられたものたちが、『わたしは「三國屋おなみ」だ!』と名づけ返すとき、そこに、〈修羅の女たちの長い列〉を視るのです。

「三國屋おなみ」、流浪する女たち。「おなごのしごと」をしてもなお、その苦海を泳ぎわたって生活の場をきずこうとした彼女たちの、せつないまなざし。いつどこで果てるともしれない、捨て身の心から生まれたものとは、なにか。大変なつらい境遇を経ている女たちは、いっぱいいる。自分もそのひとりだ。自分が受けてきた深いかなしみの傷を、ほかの人が受けるのを黙ってみてはいられない!
「三國屋おなみ」、流浪する女たち。「おなみ」とは、もともと山陰地方で、流れ者の、身を落とした女たちのことをいう集合名詞で、無名無数の「おなみ」たちが、かつては日本軍の脱走兵をかくまい、炭鉱からの逃亡者をかくまったと言われています。一揆のときに、山にこもった男たちの闘いを励まし支えた女たちもいたそうです。男たちが繰り返してきた闘いの、ざらざらした歴史の蔭で、しなやかに励まし支える女たちの気丈な働きがいつもそこにあったことだろう。彼女たちのその背中にはりついている、深いかなしみ。私・たちは、そのかなしみや涙の手ざわりを力にしていくのだ。

「三國屋おなみ」、名づけられるものが名づけ返すとき!
それは、与えられた名ではなく、自分たちの言葉であたらしく名づけ返すこと。それは、深いかなしみのなかで死んでいった同胞と道づれになっていくこと。
それは、自分が集合名詞になっていくこと。それは、自分が無名性に還ってゆくということ。風のようにみずからをひろげて、ひろやかにのびやかに風に乗って、どこへでもどんどん流れてゆける〈行動の意思〉をみずからのうちに発酵させるということ。
「三國屋おなみ」、名づけられるものが名づけ返すとき!一人ひとりの女の哀しみをこえて、「ことばもなく闘う女の集団的無名性」(菅孝行)がそこに体現されています。
 石牟礼道子さんの『春の城』という小説があります。
 いまから380年前、キリシタンを名のればいのちを奪われる時代。領主の苛烈な収奪によって、出口のない窮乏へと追いつめられていった天草・島原の人びと。「生きる」ということに賭けて、天草四郎のもと、ついに蜂起したキリシタン農漁民の想いを描き出したものです。彼らをつきうごかしたのは、遠い先祖の声、人びとの深いかなしみでした。苦しみのただなかでの祈りが、原(はる)城にたてこもった名もなき人びとの魂を美しく澄きとおらせていきます。
 その小説のなかで、幕府軍の弾丸に撃ち抜かれた天草四郎を抱きしめる最後の女性が、長崎のかつての遊女・おなみでした。

 ここで、歌を聴いてください。♪♪この歌は演出・蜷川幸雄、脚本・秋元松代のコンビで1979年に上演された、「近松心中物語―それは恋」の劇中歌です。森進一「それは恋」、作詞は秋元松代さんです。森進一が絶唱しています。(クリックすると音が出ます)

Ⅱ 秋元松代さん 『かさぶた式部考』

1965年11月、福岡RKB毎日放送によって、テレビドラマ「海より深き―かさぶた式部考」が放送されました。
そして、1969年6月に、戯曲「かさぶた式部考」が劇団演劇座で初演されます。その後、1970年に再演。1973年に劇団民藝で上演されています。
1990年、熊井啓監督・映画「式部物語」が上映されます。
戯曲「かさぶた式部考」は、ピッコロ劇団によって、2014年に上演。2017年秋に再演されています。

Ⅱ―1. 「和泉式部伝説」から 秋元松代さんの「かさぶた式部伝説」へ

平安朝きっての歌人として名高い和泉式部は、978年頃に生まれ、後に京の宮廷に召され、すぐれた才覚と美貌で波瀾に満ちた生涯を送ったと伝えられています。
恋愛遍歴が多く、藤原道長から「浮かれ女」と評されます。娘の小式部とともに道長の娘・彰子に仕え、紫式部と文才を競ったとされていますが、式部はここでも恋の浮き名は絶えなかったそうです。恋から恋へ渡り歩いた奔放な女性というイメージがありますが、詠んだその歌には、けなげでまっすぐな女心が感じられます。後に、藤原保昌とともに、任地の丹後へ下ったとされています。1025年に、娘の小式部が20代の若さで亡くなり、式部は悲しみに暮れたと言われていますが、その後の和泉式部の消息はまったくわかっていません。

恋多き王朝歌人とうたわれた和泉式部の伝説は、東北から九州まで広い範囲に数多く残っています。
この列島には、50を超える和泉式部伝説の地があり、和泉式部が生まれた、立ち寄った、没したといわれる場所は200ヵ所にも及ぶそうです。それだけ、和泉式部の話しを語り歩いた多くの女性たちがいた、ということでしょうか。
「かさ病み式部」の話しを運び歩いたのは、下級宗教者、とくに歌比丘尼(うたびくに)たちであることはよく知られています。京都・誓願寺を本拠として、薬師如来の霊験談を語り歩いた者や、熊野比丘尼を典型とするような、地獄変相絵巻をもとに仏法の教えをわかりやすく説いたりする、「絵解き」の歌比丘尼たちがいた、と言われています。彼女たちは、「自分は和泉式部の成れの果てである」というかたちで民衆に語りかけたそうです。彼女たちによって、和泉式部がいつの時代にも、社会の底辺に追い込まれて貧しく見捨てられた人びとの苦しみをやわらげてくれる、「菩薩」のような存在としてイメージされるようになったのだと思います。
「かさ病み式部」は、守り神であり救済者でしたが、話しを運ぶ来訪者としても旅の聖たちは民衆から喜び迎えられ、その伝説が語り継がれてきたということです。

秋元松代さんは、「かさぶた式部考」を書くにあたって、京都・誠心院にある、和泉式部の木彫の座像を訪ねたのを初めとして、あちらこちらに和泉式部の遺跡があるという丹後地方、そして九州・筑豊の弘法大師信仰の篠栗(ささぐり)四国八十八ヵ所という霊場、宮崎の日向法華だけ薬師寺、佐賀・杵島(きしま)郡の福泉寺などなど、式部伝説の地をつぶさに歩きつづけました。1965年のことです。けれども、漂泊の式部になんらかのかかわりがありそうに思われても、行くさきざきで、すでに寺は荒廃して人の住まないところとなり、廃寺というよりは、その痕跡すら消えようとしていたといいます。
式部信仰は、今ではまったく過去の語り草となりました。
この世のはずれへ、みえないほうへと追われ、追いやられ、それでも人びとの暮らしのなかに脈々とその祈りの声をつないできた、旅の聖たち。旅ゆく者たちの声に耳を澄まし、旅ゆく者たちにわが声を託して、人びともまた、祈りを必要としていた。それは既成教団の大きな宗教ではなくて、自分の胸のなかに小さな神々や仏様を守っていて、自分が非常に低い人間になって、そして祈り、言葉に言えないものに対して帰依する。小さな名もない神々や仏様の前に自分を置いて祈る。そんなふうに暮らしていた、どんなにかつつましくいじらしい人びとの姿があった。そのような「祈りの記憶」というものを、私・たちはとうに失ってしまいました。今の時代は、みずからの悲惨の重みで、ことごとく人びとの心身が近代の闇の奥に墜ちてゆく。秋元松代さんの胸をつきあげたものは、ここにあったのかもしれません。

秋元松代さんが、この作品で示した「かさぶた式部伝説」もまた、底辺に生きる人びとが自分たちの祈りと救いを求めて語り継いでいった物語が基礎になっています。
数ある「和泉式部伝説」のなかで、秋元松代さんが着目したのは、九州・宮崎の日向法華だけ薬師寺に伝わる「かさ病み式部伝説」でした。「かさ」は、江戸時代、梅毒の別称でした。病気に悩む民衆の身代わりに「かさ」を病み、山に参籠して治すことを代々繰り返し、民衆の苦しみをわが事として救済したと言われています。
『いつの時代のことか定かではありませんが、「かさ病み式部」の説話を運んだ人びとは、どういう道筋を通って本州から海峡を渡り、日向まで来たのでしょうか。一説には、小倉あたりから宇佐を通り、釈迦だけの尾根づたいに法華だけへ来たのではなかろうかという、そういう古い道が残っているそうです。(秋元松代『戯曲と実生活』P50から)』
戯曲では、日向朝狩山を御本山とし、智修尼をリーダーとする、新興宗教集団「金剛遍昭(こんごうへんじょう)和泉教会」が描き出されています。智修尼は、「第六十八代目和泉式部」であると自称しています。信者たちは、「かさぶた式部」の伝承にならい、御本山である朝狩山をめざして巡礼の旅をしています。

Ⅱ―2. 戯曲「かさぶた式部考」のくみたて

九州、玉島村の小農、大友伊佐の家。息子の豊市(30歳)は、一年前、働いていた炭坑でガス爆発の事故にあい、CO中毒の後遺症で脳に障害が残り、家でごろごろせざるをえない状態になっています。夫をフィリピン戦線で失った伊佐は、いっときも離れず豊市の世話をやくことが、せめてものなぐさめです。一家を支えて働く勝ち気な妻のてるえは、今では、村の青年との関係がうわさされています。かつて支えあっていた一家の3人が、奈落に突き落とされ、それぞればらばらの世界に生きるほかなくなっています。
あるとき、豊市は、伊佐が土間で七輪に起こした炭火のにおいを、炭坑のガス爆発事故と錯乱して、外に飛び出します。

村のみちを、和泉教会のおめぐりの一団が、尼式部の歌を唄いながら行きます。
♪ふるさとに 帰るころもの 色朽ちて 錦の浦や 杵島潟 弥陀の救いも 有明の 海より深き 親の慈悲♪♪

村の公民館前で、和泉教会のおめぐりの一団が旅装を解いています。
家を飛び出した豊市は、和泉式部の末裔と称する智修尼をひとめ見て、その美しさに心を奪われます。信徒は伊佐に、本山である日向の朝狩山でおこもりをする旅への同行をすすめます。伊佐は、豊市のかたくなな智修尼へのあこがれをときほぐせず、息子とともに同行することを決心します。

智修尼は、「仏さん、仏さん」と言って、いちずに彼女を慕う豊市を、仔犬のようにかわいがり、なぶり、いたぶり、冷酷に拒絶します。「まだ、おこもりはあと3日。お山かる下りて、また屈託な旅の続いて‥‥つくれん信者さんに取り巻かれて‥‥むなしか。」豊市が「仏さんな、なして悲しげにしなはるとですか。」と言うと、「私の悲しうにしとりますと?すんなもん、とうに失うしなりました。私は、活き仏の式部さまですたい。」そして、「仏さんの言いなはるこつなら‥‥お経でん覚えたった。」と言う豊市に、「お経?あんなつくれんものば覚えよらしたとですか。さぞご苦労な。」と返す智修尼。
酷烈なサディズムに、かろうじて自己を解放している智修尼。よそわれた聖性と共存するアンビバレンツが、彼女の妖しげな美しさをいっそうきわだたせていきます。

あるとき、深い嫉妬から、若い男の信者・夢の助は、豊市を谷底に落とします。谷間に反響する、豊市を探す伊佐の声。
伊佐は、足に一生癒えない傷を負いますが、奇跡的に豊市は助かったのでした。そして、なんと、豊市は、落ちた衝撃から記憶を回復し、まったく昔どうり正気を取り戻したのです。
教団の幹部によって、「豊市の奇跡物語」が作られていきます。
「奇しくも、ひとりの青年が足を滑らせてあやまって落ちた谷は、かのいにしえ、かさぶた式部さまのおん身を投げられたとき、薬師如来さまの現れまして、両のおん手をもってお支えなはりましたちゅう、ゆかりも深き同じ断崖であったとです。これひとえに、信仰ば求めちお山へ登られた、こん青年の心ばあわれみたもうみ仏の、厚き恵みとお加護ば受けたと申すほかはなかであります。」
信者たちは、感動して涙を流しています。
参籠所前には、紫の雲に乗った仏の像と、本人たちとは似ても似つかぬ豊市とその母伊佐の大絵馬が、おめぐりたちの手でにぎやかに飾られます。

しかし、豊市は、再び元の昏迷へと引き戻されます。(実際にも、いったん良くなってから、再び更なる症状の悪化がみられることはあるのだそうです。)
「仏さんも神さんも、私ば思うさん、からかいなはったとだろう。幻のごたるもんば見せなはって、また取りあげてしまいなはった。術なか、術なか‥‥‥。」再び奈落に突き落とされる、伊佐。
伊佐は、豊市とてるえを玉島村の家に帰し、自分はひとり参籠所の番人にでも掃除女にでもなって、朝狩山に残る決意をします。伊佐は、智修尼に願い出ます。
「私はもう、なにも信じてはおらんとでござるまっす。‥‥‥お山へ残りたかと思いますとは、ほんのつかの間正気に返りよりましたせがれの顔ば、忘るるためでござるまっす。‥‥‥それなら、ここへ残って暮らすほかはなかごと思うとです。‥‥‥私のかさぶたは、豊市でござるまっす。朝狩山はかさぶたの棲みよる処と、ああた様の教えて下はりました。」

一年後。参籠所に掲げられた、「豊市とその母」の大絵馬は、おめぐりの人びとのさんぎょうの的ですが、白髪の多くなった篷髪に、破れ汚れた着物の番人を、当の母だと気づく人はいません。伊佐は、若い女のおめぐりたちに、「汚なか婆さん、びっこばひきよって、宿無しの転がりこんだったい、あぎゃんもん、うすとろか、‥‥」などとつぶやかれながら、仕事を言いつけられています。
初旅の女に、「ああたは、こどもさんのあんなはらんとですか。」と尋ねられ、伊佐は「はい‥‥‥。」とだけ応えます。
粗末な石積みのかまどの前で、釜に水を注ぎ足して枯れ枝をたく伊佐。あかあかと燃えあがる炎に、伊佐の顔が照らされます。

今日もまた、傾いた夕陽を背に受けて、一団のおめぐりたちが、疲れた足どりで、朝狩山に登ってきます。
♪はるあきを 重ねて遠き 日向灘 涙にくもる 霧島や 阿蘇の煙の 遥かなる わが子哀しの 旅路かな♪♪
 ─幕─

Ⅱ―3. 伊佐のたっているところ

いつからか、「かさぶた式部考」の伊佐の立ちすくんでいる姿が忘れられなくなりました。
伊佐の絶望の前では、私・たちが今まで知っていた宗教は全て滅びた。朝狩山の粗末な参籠所で、ひとり生きる伊佐。私は私の苦しみを誰にも負わせない、自分で負うのだ‥‥‥。豊市の病は治らない。治らない地獄はつづく。『百匹千匹の蝉の啼きよるところが、豊の生きる世界でござるまっす。豊は、そこへ帰るとがほんとうでござるまっす。』‥‥‥病んだ豊市に、心の内でひたと寄り添うということ。病んだ豊市のそばにずっといるという気がして、すべてのことへの断念ということが、伊佐の心の深いところにありつづけたのだろうと思います。
傷つき破れてぼろぼろのまま、乞食姿となって寄るべない伊佐の境涯。どこにも行けずに誰にも話せずに、立ちすくんでいる伊佐。伊佐ひとりの胸に、のみくだして伝えられずにいる念い。深く深く沈められている念いのなかで、独りさすらう伊佐。その姿こそ、いにしえの和泉式部の姿だったのです‥‥‥。
数多くの和泉式部たちが、生まれかわり死にかわりして、漂泊する和泉式部を長命させてきました。「かさ病み式部」は、伝承のなかで、「かさ」を病むたびに何度もこのお山に戻ってきます。
漂泊する和泉式部の流浪を支え、語り継いできた素朴な民の浪漫性。貧しい生活の喘ぎと、寄るべない魂の哀しみと、心の優しさ。そして祈りと想像力のなかに存在する「かさ病み式部伝説」の山・朝狩山こそ、伊佐は、「かさぶた」を背負った見苦しい者である、不細工な自分の棲みかだと感じているのかもしれません。

暗きより暗き道にぞ入りぬべき
遥かに照らせ 山の端の月

 「世の有り様も他者も自分も、時代そのものが毒されているので、和泉式部が歌ったように、遥かに照らせ 山の端の月とは、現代人には歌えない」と、石牟礼道子さんが書く。
 はたして、「かさぶた式部」の漂泊が、伊佐の漂泊が、終わるときがくるでしょうか。

Ⅲ 松尾蕙虹さんの闘い

秋元松代さんは、九州への取材の旅で、和泉式部にかかわりながら行くさきざきで、閉山して廃鉱となった炭鉱地帯に行き当たったといいます。和泉式部と炭鉱、この唐突なふたつのものが、まるで判じ絵のように、秋元松代さんの裡で位置を占めていったそうです。
かつて、中小炭鉱の多い九州では、新聞にも出されないような片隅の事故は絶えず続いて、犠牲者と家族たちの不幸はいっそう深刻なものがありました。とくにCO中毒の患者さんをめぐっては、「どろどろの血膿の蓋であるかさぶたを負うものは、いつも社会の底辺にあって生産を支え歴史を支えていながら、侮辱され忘れられていく人びと」だとして、秋元松代さんは深く心を傷めていました。

Ⅲ―1 三井三池炭鉱三川鉱炭塵爆発事故(1963. 11.9)

石炭採炭量最盛期の1952年には、福岡の筑豊、三池、北海道の石狩、福島の常磐炭田など、この列島の炭鉱は900を越えていました。
けれども政府は、石炭から石油へとエネルギー政策を転換していきます。1960年に入ると、「所得倍増計画」による急激な経済成長は、エネルギー革命の速度を速めました。国の炭鉱切り捨て政策が加速され、ことごとく中小炭鉱はつぶされ、多くの人びとの生活基盤が無残に奪われていきました。
石炭から石油へ。このエネルギー転換史上、最大のヤマ場が、三池炭鉱の大争議でした。
三池鉱業所は、三井鉱山が明治政府から払い下げを受けて経営していた、日本最大の炭鉱です。存続するために合理化と人員整理が強行され、1959年12月から1年近くにわたって繰り広げられた大労働争議は、「総資本と総労働の対決」と言われました。三川坑のホッパーを組合側が乗っ取り警官隊とにらみあう、一触即発の雰囲気。生きるか殺されるかを覚悟した壮絶な闘いでした。
三池争議から3年後の、1963年。東京オリンピックを翌年に控え、日本は高度成長のただなかにありました。11月9日午後3時12分。三池炭鉱三川鉱ベルト斜坑で、世界最悪の炭塵爆発事故が起きました。458人の命が一挙に奪われました。生存者のうち839人がCO中毒に罹患しました。
当時まだ21歳だった受川孝さんは、あの日以来、口をきくこともなく、石のように硬直した身体をただベットに横たえたままで、45年間命を保ってきました。
23歳だった宮島重信さんは、担ぎ出されたとき、すでに意識がありませんでした。その日から10年にもおよぶ、家族をあげての死との闘いが始まりました。ひどいときは、1か月に1600回ものけいれん。痰も詰まるので、いっときも目を離すことができなかった。年老いた両親は、息子の病室に寝泊まりし、不眠不休の看病を続けました。亡くなったとき、手足は枯れ枝のように黒く変色してねじ曲がり、背中や腰は床擦れで腐食し、骨が露出していたそうです。「かあちゃんたちをはやく楽させんと」と言って、採炭夫になったそうです。 無数の人びとの運命が、有明海のはるかな下の地底で書き換えられたのです。

Ⅲ―2 奈落

CO(一酸化炭素)は、血液中で細胞に酸素を運ぶヘモグロビンとくっつくので、全身の酸素が欠乏し、脳細胞は無残に破壊されます。当時は、お医者さんも、CO中毒に対する理解がほとんどありませんでした。病院では溢れかえる重症の患者さんたちで手がいっぱいなので、歩ける者は家に帰るようにとうながされたのでした。
「なんとか家まで連れて帰ったとばってん、そこからが地獄でした。」───
つい今しがたの記憶がもう、ない。煙草に火をつけて、ぽっと置いて、忘れてしまう。家に帰る道すらすぐに忘れてしまう。物を取り落としてしまう。指を折って数えることができない。今が何年の何月何日か、まったくわからない。頭が痛い、と暴れまわる。いきなり叫び出す。そこに白い影が立っている、と大声でわめき、怯える。えすか(怖い)、えすか‥‥‥。事故で心に刻み込まれた、闇に包まれた恐怖。夜中に大声でわめいて、子どものように泣き出す。突然怒りだし、誰彼かまわず殴る、蹴る。そうかと思うと、何時間も、ただずっとボーッとしている。
家族としては、気の休まるときが一瞬たりとなかったのです。いつ暴れだすか、わめきだすか知れやしない。今か、次の瞬間か。いったん暴れだしたら、誰にも止められない。けがをしないよう、家族全員で外に逃げ出す。いっときも心安らかでいられるときがなかったのです。

当時32歳だった、松尾蕙虹さん。炭鉱マンの夫と8歳と5歳の娘たちと、平穏な生活を送っていました。決してぜいたくを望んだわけではない。ただ、家族の小さな幸せが続くことだけを願っていた。そんな彼女が、奈落の底に突き落とされます。
夫の修さんが地上に生還したのは、事故から約8時間後でした。「なんでさっさと出てこんかったね」。無事を祈りながら待った蕙虹さんの言葉に、修さんは、「助けを求める人の背中を足蹴にして上がれるか!」と語気を強めました。地底で、わが身をかえりみず、同僚の救助にあたっていたのでした。
数日後、突然、修さんはうめき声をあげました。熱は40度を超え、身体の震えが止まりません。痛みにたまりかねて暴れまわる。CO中毒症の初めての発作でした。「あの日から、気が休まることなんかなかった」。
蕙虹さんは、つらくなるといつも娘さんたちと泣きながら声を張り上げて唄ったそうです。

Ⅲ―3 書き換えられた「事故調査報告書」

炭鉱では、坑道を延伸するとき、切羽を爆破して掘削します。石炭をベルトコンベアーで運ぶ際にも、破片がこぼれ落ちます。放っておけば、坑内は炭塵が立ちこめてしまう。ただでさえ燃えやすい石炭の粉が、空気中を舞っている状態というのはきわめて危険で、なにかのはずみで火がつけば、大爆発を引き起こします。だから、それを抑えるために、坑内は常に散水して掃除し、上から岩粉を撒いておかなければいけない。ちゃんと炭塵を抑えているかを管理する保安の仕事は、きわめて重要になります。
それなのに、強引な人員削減と無理な増産体制で、坑内の保安がいいかげんになった。ベルトコンベアー要員も減らされ、横揺れするベルトからこぼれ落ちる炭塵の掃除もおろそかになった。
あの事故は、起こるべくして起こったのではなかったか?
戦後最大の炭鉱事故です。原因の調査は当然、綿密に行われました。鉱山保安法にふれていれば、刑事罰の対象にもなる。複数の調査チームが結成され、事故現場に入って鑑定が行われます。
その結果、刑事罰を想定した司法捜査の鑑定書では、以下のように推定されました。
十両編成の炭車は、斜坑にレールが敷かれ、地上までワイヤーで引き上げられます。その二両めと三両めを繋ぐリンクの金属の劣化が原因で、千切れて炭車が暴走したために、底に堆積していた炭塵が舞い上がった。さらに、暴走した炭車が天井を支える枠に激突し、折れ曲がったアーチが架線のケーブルを切り裂いた。電気火花が散った。これが舞い上がった炭塵に着火して、爆発を引き起こしたのではないか、と。
ところが、三井鉱山が反撃に出た。坑道に炭塵が溜まっていたとなれば、会社側の責任になる。幹部が刑事責任を問われる事態は避けられない。このため、政府系の調査団のメンバーを抱き込み、事故の原因として、必ずしも炭塵爆発とは限らない、という結論にもっていったのです。調査団のメンバーに、三井と近い人間が多数いたといいます。相手は、三井財閥です。政界にもいくらでも顔が利く。事故の「調査報告書」を、自分らに有利に書き換えさせることくらい、簡単なことだったと思えます。原因は結局、よくわからない。わからない以上、誰かに責任を取らせることはできない、ということになったのでした。
業務上過失致死傷の疑いで書類送検された三井鉱山の幹部について、福岡地検は、1966年8月、会社側が坑道の掃除を怠り、かなりの量の炭塵が積もっていた疑いがあることを認めながら、全員を不起訴処分にしました。
戦後最大の炭鉱事故は、原因究明も責任問題もうやむやのまま、蓋をされて封じ込められました。まさに、国と企業と学会と司法ぐるみの隠蔽であったのです。

Ⅲ―4  立ち上がる妻と母たち

松尾蕙虹さんは、1965年3月、妻と母の立場から、324人の女たちとともに、「CO中毒患者家族の会」を結成します。全国に実態を訴えて歩きまわります。
1966年10月、労働省は、CO 中毒患者738人への労災保険給付打ちきりを通告します。
最後の生きる望みを託して──1967年7月、東京へ。「家族の会」は、夫と家族を救う新しい法律をつくろうと、「CO 特別立法」の制定を求めて上京しました。
松尾蕙虹さんたちは、連日、東京の街頭でビラを配り、労働組合をまわり支援を頼み、カンパ集めにと奔走します。東京・三井鉱山本社交渉。たぎる怒りに声をふるわせ、流す涙に声をつまらせ、苦労を訴える女たち。なんの受け答えすらしない三井鉱山。連日、冷たいコンクリートの上に新聞紙を敷き、座り込みをします。労働省前でのハンストも始まります。 それに連動して、三池でも、7月14日、CO中毒患者さんの妻たち75人が坑底に下り、座り込みを始めます。気温30度、湿度90%を超える地底の闇のなかで、145時間、一週間近く耐え抜きました。「命の保証はしない」という会社側の警告を振り切った、決死の籠城でした。外から仲間たちが、炭車におにぎりや野菜を入れて下ろしてくれたそうです。
根負けした政府は、「炭鉱災害CO中毒症特別措置法」を成立させます。
しかし、成立した「特別措置法」は、患者さんたちの要望からはほど遠いなかみでした。女性たちの悲願だった、要求の三本柱「完全治療・収入補償・解雇制限」は、明文化されませんでした。しかも、会社側に有利に適用される始末でした。患者さんと家族の苦しみは、どこまでも置き去りにされていきました。女性たちの命がけの抗議も、大きな壁を突き崩すことはかなわなかった。
この座り込みからほんの2ヵ月後の、1967年9月28日。またしても三井三池炭鉱三川鉱で、坑内火災が発生。死者7人、CO中毒患者425人。このときも三井鉱山は、また不起訴に終わりました。
いかに労働者の命がはかないか。「泣き寝入りよ、結局。弱か者はいつまで経っても弱かまま。強か者によかごと使われて、歴史に封印されるだけたい」───。
患者さんとその家族は、ずっと血のにじむような思いを強いられ、何度も何度も深い失望をあじわうばかりでした。

 患者さんと家族の苦しみは置き去りにしたままで、CO問題は終焉へと走っていきました。
 1968年1月、三池労組と三井鉱山の間に「CO協定」が成立。しかし、これにも患者さんと家族への十分な生活補償などは盛り込まれませんでした。しかも、じつはこのとき同時に「裏協定」があったのです。「CO問題については、今後いっさい争いません」
 当時の新聞は、「三池CO闘争が妥結」と報道し、会社側は、市民に向けて「CO問題は円満に解決しました」というビラを撒きます。
 この「CO協定」が結ばれてから、患者さんたちは後遺症に苦しみながらも職場に復帰します。もと鍛冶職人だった蕙虹さんの夫の修さんも、草むしりや機材のさび落としを命じられます。不満のはけ口は家庭に向けられ、暴力に耐えた蕙虹さんの体はあざだらけになったそうです。55歳になり定年退職という名で会社を放り出された患者さんたちは、次々と倒れていった。退職後は、医療費はすべて自分持ちだからです。
 蕙虹さんは言います。「そのときに、なんとかもう一度、家族や患者に『生きててよかった』と思わせるようなことを考えんと、わたしたちはダメになると思ったです」
 そんなときに出会ったのが、「水俣」でした。
 水俣の患者さんたちは、「奇病・伝染病」という差別と偏見のなかで、雨戸を閉めるようにしてひっそりと生きてきました。
 1968年9月、政府はやっと、水俣病の原因はチッソ工場が流したメチル水銀化合物であると公式に認めます。水俣病の「公式発見」から12年がたっていました。
 1969年6月、水俣病の患者さんとその家族が、チッソに損害賠償を求めて提訴します。その日、原告団の代表・渡辺栄蔵さんは皆さんの前で、日に焼けしわの刻まれた顔で言いました。「今日ただ今から、私たちは、国家権力に対して立ち向かうことになったのでございます。‥‥‥」自分も妻も子どもも孫たちまで三代も水俣病の犠牲になった、元漁師の口から出た言葉でした。
 蕙虹さんは、熊本で開かれる水俣病裁判に毎回通い続けます。三池の人は特別だから、患者の付き添いということにして、傍聴席に必ず入れてあげよう、と水俣の人たちが言ってくれたそうです。
 蕙虹さんは、水俣病裁判に通うなかで知り合った水俣病研究会の人たちに相談をします。水俣病研究会は、患者さんの側に立ち、裁判に勝てる理論をつくるためにできたもので、石牟礼道子さんや原田正純さんもいました。そうして、松尾蕙虹さんの思いを支援するために、水俣病研究会に参加していた人たちが中心になって、三池CO研究会がつくられたそうです。

Ⅲ―5 提訴へ

1963年11月9日の「三井三池炭鉱三川鉱炭塵爆発事故」から10年めを迎える、その日。
「泣き寝入りばしたくなかとですたい」──1972年11月9日、松尾蕙虹さんは、たった2家族4人だけで裁判を起こします。(その5ヵ月後には、さらに2家族が訴訟に加わりました。)「ヤマのおきて」に反して。三池労組の命令にも従わず。日本一の三井鉱山会社を相手に。「三井さんには足を向けて寝られない」と言われた、企業城下町での〈反逆〉でした。

「私たちは主人と9年間、本当に苦しみと悲しみのなかでしか生きてこられませんでした。‥‥(中略)‥‥9年後の今、‥‥(中略)‥‥CO患者と家族たちの悲劇は一層深刻になるばかりであり、また炭鉱労働災害者は激増の一途をたどって、今の現在、健康な労働者が、明日のいつ、虐殺されるか知れないという地底の地獄の現実は何ひとつ解決されていないのが、あの日から10年めの今日であります。‥‥(中略)‥‥人命尊重、この言葉のもつ意味をもう一度かみしめて、新しい一歩を踏みだしていきたいと思います」。

26年におよぶ法廷闘争の火ぶたが切られました。松尾蕙虹さんは、訴訟で真っ向から、三井鉱山の管理責任を追求します。その孤軍奮闘する姿に、たくさんの支援者が集まっていきました。

 1997年3月30日、三池炭鉱閉山。その翌年、裁判はあっけない幕切れを迎えます。最高裁は上告を棄却。松尾蕙虹さんが強く訴えた妻への慰謝料は認められませんでした。妻たちの苦しみは慰謝料を請求できるほどではない、という理由で。
 しかし、事故原因は三井鉱山にあることが立証され、被害者の夫と子どもを抱えて闘う妻の姿を、世に問いかけました。裁判を起こさなければ、「炭塵爆発事故」であるという真実すらも、闇に葬り去られているところだったのです。とうとう、三井鉱山の責任を認めさせたのです。
 松尾蕙虹さんに会うと、人は、瞳の奥にのぞく芯の強さに魅了されるそうです。三井の企業城下町での闘いにも決してひるまなかった気骨が、そこにはあります。そんな気骨がはぐくまれたのは、祖母と母そして蕙虹さんと、女三代炭鉱に生きてきた、「炭鉱(やま)の女」だからかもしれません。「私たち親子は、筑豊から三池へとずーっと炭鉱に繋がれて生きてきたっていう感じですねぇ」と回想されます。女三代炭鉱の街に住み、修羅場をくぐり抜けながらもたくましく生活を紡いできた女の圧倒的な深みを感じます。

Ⅳ 石牟礼道子さん 「道行き」を生きる

 炭鉱で働く人たちは、終日お陽様の当たらない地の底で石炭を掘ります。石炭の粉塵に染まってまっ黒い汗を流しながら。
 走るのがすごく速くて、時々仲間を連れて家に夕食を食べに来ていた、笑顔の人懐こい若者だったという、石牟礼道子さんの叔父さん。家業が傾きかけていた頃、みんなに内緒で三池炭鉱で働き始めた。そのたった数ヵ月後に、落盤事故で亡くなられたそうです。
 後に、うらうらと陽の当たる田んぼのほとりで、稲の花が穂をはらむ香りに包まれて暮らしていた石牟礼道子さん。その足下の地の底の脈というか大地は、筑豊の炭鉱地帯の地下何千尺も降りねばならないまっくらな坑道と地続きで、ふたつの距離は遠いけれどもすごく近かったのだと思います。
 1963年11月、三井三池炭鉱三川鉱で起きた炭塵爆発事故。その1か月後に刊行された小冊子『現代の記録』、その「編集後記」に「石牟礼」と署名された次のような文章があるそうです。

 《最終原稿をめくっている時、三池のニュースが入った。労働者達の中には、スクラムを組んで座ったまま、こと切れていた姿があったという。なんたることか。
 彼らの声を遮断した闇をかきわけて、わたし達が今、彼らと交わしうる対話とは何か。全ての運動の内部にむけて問いかけられている彼らの言葉をききわけられるか。
 見えざる三池がなんと数知れず埋没しつづけて来たことか。
 ローカルテレビ局のニュースは、遺影をかかげ激昂して走り寄る遺族達の集団に、一言の挨拶もせず、選挙遊説先にむけて逃れ去る首相の後ろ姿を、刻明に写し出したが、30分後のNHKニュースではみごとにカットされ、もっともらしい哀悼声明が発表された。わたし達の間に深化し、潜行しているアウシュビッツがある。
 豚小屋の匂いのこもる編集小屋にへばりつきながら、状況を刻みつけ得ない無念さをこめて、9月に出す筈だった創刊号を出す》

Ⅳ-1 「死民」たちの春

この列島に刻まれた、近代という時間。その闇に葬られたもの、葬ってしまったものへのかぎりない愛隣を生きた、石牟礼道子さん。生きる悲しみと生きる孤独に深く深く根ざしていたからこそ、石牟礼道子さんが紡ぐ言葉には、可憐な詩のような〈悲歌〉の響きが感じられるのだと思います。石牟礼道子さんは、ひとも、魚もけものも空も海も、いのちをいとなみまっとうして共存していたころの、遠い祖(おや)たちのこころを汲み上げていきました。アサリ、ツノ貝、サクラ貝、真珠貝、サザエ、アワビ、エビ、カニ、ハゼ‥‥‥砂の上を這い遊びまわる小さな生き物たちのにぎわい。魚たちの夢を夢みる漁師さんたちのこと。海のものたちとの、心おどる交歓。背負いきれない苦難を背負ってもなお、「人さま(人間)に逢いたい。懐かしさよぉ。懐かしかばい」と願う水俣病の患者さんたちの〈おもかげ〉を遺していきました。
水俣で過ごした幼年期の日々を描いた『椿の海の記』のはじめに、「死民たちの春」と題する五行詩があります。

ときじくの
かぐの木の実の花の香り立つ
わがふるさとの
春と夏のあいだに
もうひとつの季節がある

「ときじくのかぐのこのみ」は、『古事記』に記されている彼方の世界「常世(とこよ)の国」にあって、季節を問わず豊かな香りを放つ木の実だそうです。不知火の海辺に蜜柑山を渡る風が吹いてくると、死んでいったものたちの沈黙の声は、「ときじくのかぐのこのみ」めいた蜜柑の花の香りとなって、いつまでも石牟礼道子さんとともにありました。
石牟礼道子さんは,「わたしのかえりたいところは、どこか。それは〈もうひとつのこの世〉である」と書く。それは、水俣病の患者さんたちのかなしみと無念の生の果てに、どんなにかかえりたかった悲願の世でもあったろうと思います。そしてそれは、どんなに謙虚でつつましくあえかな世界であったことでしょう。石牟礼道子さんは、「私たちは何処へ行くのか」と題する講演で、こう語っています。

「生きている人たちの気配に満ちた、それは人間たちだけでなく海辺の草や生き物たち、山の神様たちとかが行き来できていた世界。山が、水が、川が、人の暮らしが健全で、日々新しい神話が生み出されていた世界。そういう世界のことをひと言で言えば魂の世界としか言えないものです」

1996年、「水俣・東京展」の開催に合わせて、「日月丸」と名づけられた一艘の舟が、水俣から東京湾まで航行しました。
そのときの石牟礼道子さんの言葉です。
「鎮魂の儀ではなく、魂鎮めではなく、魂起こし、出魂の儀を」
私は、この舟はもしかしたら幻の舟かもしれないとも思います。満身創痍のうたせ舟。日本近代とは異なる時間の風の中に乗り込んで。その舟に、患者さんたちの魂をたくさん乗せて。
魂のもどるとこがなかもんなあ  人が美しく暮らして、人の魂が美しい状態で暮らしているところに行きたい、そう願っておられたから。どこかに美しい街はないかと。どこかに美しい人と人との力はないかと。それはいまも〈未生の夢〉となって、私・たちをうながし続けています。

Ⅳ-2 夕焼け

  夕焼け
ほんとうに
うたうべきときがきた
さようなら 空が燃える
空が燃えるから
ああ 燃えているから
さようなら
さようならをいうと炎があがる
ほそいほそい声でうたを
さようならを うたう
すると わたしが発火して燃える
さようなら
              (石牟礼道子 1972年)
「この世の風が痛くてならず、わたしは自分を埋葬しかけてみる。おびただしい死者たちの病から立ちなおれない」と書く石牟礼道子さんは、この世ではない〈もうひとつのこの世〉へ、黒い死旗を立てていざり寄る。死者たちへの思慕をこめて。風にやさしく吹き流れるやるせない黒い布に、化身する。
水俣病によってくずおれ果てた、惨死した死者たちの〈声〉を聴こうとして、いまもたしかに殺されつつあるものたちの〈声〉を聴こうとして。石牟礼道子さんは、みずからを生死のきわへと「解体」することを、そして生死のきわに引きずり込まれそうになるわが身を肯定しきることを、自分に課そうとしたのだと思います。
そこからこそ、『苦海浄土』三部作が生まれた。それは、石牟礼道子さんのいのちをすり減らす、生を賭けた「闘い」だったのだと思います。たった一人で闘うつもりで。そうであるからこそ、かなしみの果てにあった水俣病の患者さんたちの〈慈悲のおもかげ〉が見い出されていったのだと思います。
積年のかなしみが、そのおもざしをただただ美しくするということがある。〈もうひとつのこの世の遺民〉であった人たちの、〈おもかげ〉。いまものびひろがる丘の間の小道を、躰を傾けながらゆっくりゆっくり歩いているのではあるまいか、と思われる婆さまたちから、そっと背中を撫でられたことがあると、石牟礼道子さんが書いていました。
「婆さまたちの掌が後ろからそっときて、背中を撫でられたことがある。赤子になったような気分であった。掌の熱さというものは神秘である。久しく忘れていた歳月を思い出させるような、優しい愛撫を老女たちの掌から感じた。
『考えなはんな、考えなはんな、休みなはりまっせ。ああたもきつかなあ。わたし共も今日は休み。蝶々の来れば蝶々についてゆこ。風の来れば風についてゆこ、なあ』
『はい』
わたしはそう返事した。」

          (『神々の村』「あとがきにかえて」から)
 受難の極にある婆さまたちから手をのべられていた石牟礼道子さんもまた、患者さんたちのかなしみの胸底のいちばん深いさびしい気持ちへ、寄るべないところに追いやられ行き場のない魂のさびしさへ、掌の熱さでもって手をのべていたのだと思います。

Ⅳ-3 道行きのえにし

 不知火海のほとりで、かつて海風に呼ばれて、潮の香りに呼ばれて、しょっちゅう魚たちに呼びかけられて、海の波の呼吸を感じ、潮の時間を生き、海を抱いて眠った。凄惨な身内の死にぎわを看取り、自分もいよいよ・・・・・・という想いの底にいた患者さんたちが、みつめつづけていた海の意味をずっと書こうとされてきた、石牟礼道子さん。
 繋がぬ沖の捨小舟(すておぶね)生死(しょうじ)の苦海果てもなし
(『苦海浄土』)
水俣病の患者さんたちの孤独のかたわらで、みずから「捨小舟」となってたゆたっていた石牟礼道子さん。

石牟礼道子さんは、切り捨てられ打ち捨てられてきたものたちに、一心に花を手向けてこられて、お果てになりました。水俣病の患者さんたちの、そしてそのかたわらで一緒に地に伏してきた人たちの、夢の深さとその負の生に、現実を超えたあえかなもうひとつの生の光がまつわってくるときがくることを願っていたのだと思います。そのような夢まぼろしの方から現世をうつす鏡のような作品を発表しながら、石牟礼道子さんはどんなにか生み出したかったのだと思うのです。自他ともに救われぬ、悶えかなしむばかりのものたちがたたずんでいるのがほんとうだといえる世界を! 九州・水俣には、”悶えてなりと加勢しませんばなぁ”という言葉があるそうです。人の悲しみを自分の悲しみとして悶える。自分はなにもできないけれど、無力なだけの存在であるけれども、その人といっしょになって苦しみをともにするしかない。救われることのない奈落の底にあって、それでもかたわらに立ち続けようとにじり寄る女たち。そうやって、ただひたすら抱きしめてきた女たちの姿が想われるのです。
「 生死(しようじ)のあわいにあればなつかしく候(そうろう) 
みなみなまぼろしのえにしなり 

おん身の勤行(ごんぎよう)に殉ずるにあらず ひとえにわたくしのかなしみに殉ずるにあれば 
道行のえにしは まぼろし深くして一期の闇のなかなりし 
ひともわれもいのちの臨終(いまわ) かくばかりかなしきゆえに けむり立つ雪炎の海をゆくごとくなれど 
われよりふかく死なんとする鳥の眸(め)に遭えり
  はたまたその海の割るるときあらわれて 地(つち)の低きところを這う虫に逢えるなり 
この虫の死にざまに添わんとするときようやくにして われもまたにんげんのいちいんなりしや 
かかるいのちのごとくなればこの世とはわが世のみにて
われもおん身も ひとりのきわみの世を あいはてるべく なつかしきかな 
いまひとたびにんげんに 生まるるべしや 
生類(しようるい)のみやこはいずくなりや 
わが祖(おや)は草の親 四季の風を司り 魚(うお)の祭を祀(まつ)りたまえども 
生類の邑(むら)はすでになし 
ゆめゆめ かりそめならず 今生(こんじよう)の刻(こく)をゆくに 
わが眸(まみ)ふかき雪なりしかな 
                         (石牟礼道子 「序詩」より) 」

おわりに

深い悲哀と絶望の果てで、内心の痛苦に深く耐え立ちつくす、伊佐の姿。いつのときも、怖れつつもひるむことなく、まっすぐに向き合ってきた勁(つよ)くてしなやかな精神を決して手放さなかった、松尾蕙虹さんの姿。そして石牟礼道子さんの姿。悲しみを生きる女たちの姿が重なりながらつらなってゆく。ことばもなく闘う「三國屋おなみ」につらなる、女たちの長い列がある。修羅を生きた女たち。そこに、ひとすじの流れとしての、女たちのいのちが燃えて潜んでいると信じたい。修羅の女は、私・たちとともにいる。修羅を生きる女たちが〈解放〉されないで、女たちは〈解放〉されない! 生の奈落からの声、生の奈落からの〈生のサンジカ〉への希求の声!
今日、私が一番言いたかったことは、日本の近代の矛盾が最も極まったその時期に、それぞれのありようで、まさに近代というものが穿った深い亀裂を前にして、確かに〈ふれあっていた〉3人の女・たち、秋元松代さん、松尾蕙虹さん、石牟礼道子さんがいたんだ、ということです。

ほんとうにつたない限りですが、いまの私の視野からみえる範囲で、修羅を生きた女・たちの〈声〉を聞き分けようとしてきました。
言うまでもなく、私にその〈声〉をじゅうぶんに受けとめるだけの力量も度量もありません。
それでも、その〈声〉が告げていることが、かすかにではあれ聞こえてきます。
静寂のなかでこそ聞こえてくる〈声〉がある。
あふれ出す静かな、静かな〈声〉。
かなしくてやりきれなくて、
それでもなにかを叫ばずにいられない〈声〉が 
  声にならない〈声〉が 
 
修羅の女    〈反〉宣言
はたして哀しいものか 敗北の系譜とは
抱きしめ、抱きしめてきた者・たちと敗者の路を行く
「負けるが勝ち」などと間違えないで
彼・らにネコナデ声で近づき
彼・らを神輿に祭り上げ
勝者にとって代わり
新たな勝者に成り上がりたい者等と間違えないで
敗者の路の果てまで行く 負けに負け続け
勝者の正体が、誰の眼にも明らかになるまで
負けることが勝つことより すがすがしく惨めでない
負けることの果てまで行く
その果ての勝者も敗者もいない世界へ
遠くまで行く

あぁ、いとおしい修羅の女・たちよ・・・・
私・たちの思い描く〈生のサンジカ〉への希求。その内実が、なお、近代の闇の奥に突き落とされた人たちの〈痛み〉を、ほんとうに包み込めるものになっているかを、修羅の女・たちは問いかけている。
この列島の底部に刻まれてきたひとすじの女たちの列、修羅の女の長い列。その女・たちの〈解放〉なくして、この列島を〈生のサンジカ〉域とすることは、可能か?
私・たちは、〈生のサンジカ〉というものをどういう深さにおいて創りだしていけるか。それが、「米騒動」から100年の〈後〉を生きる、私・たちの〈問い〉である。

これで終わります。ほんとうに長いあいだ聴いてくださって、ほんとうにありがとうございます。
米騒動100年プロジェクトSCENE5
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米騒動100年プロジェクトSCENE5
米騒動100年プロジェクトSCENE5

風信

 

*世界の真昼*この痛ましい明るさのなかで人間と事物に関するあらゆる*自明性*にわれわれは*傷つけ*られ*ている」(田村隆一)*

『米騒動100年プロジェクト』ニュースレター編集者 御中


「米騒動100年プロジェクト 」のSCENE5:「修羅の女の長い列」を聴いて

● 8月18日の午後1時から5時までなんとも形容しようもない時空をただよっていた。それは、「修羅の女の長い列」を語る人(坂口さん?)の〈語り〉が創り出すなんとも言いがたい「坂口ワールド」(といった人がいた)の時空だった。〈語り〉が創り出す〈騙り〉の時空?!
「坂口ワールド」、それは1.「地の言葉」と「他のひと」・「他のひとの作品」の言葉との切れ目がない語り 2.「引用した言葉」を繋いで歩く者の語り 3.近代の「作品」という概念をこえた世界であり、「作中人物」と実在の人物が区別なく生きている世界・・・・だった。なんと言ったらいいのか、近代の約束事のルールからはみだした世界だった。

● あとの「フリートーク」では、「坂口ワールド」で触れられた松尾蕙虹さんが肯定的に受け止められ、石牟礼道子さんは否定的に言及され、秋元松代さんには全然触れられないという感じだった。
 松尾蕙虹さんについては、「粉塵事故」で倒れた夫にどこまでも寄り添い、その「事故」を起こした企業責任の徹底的な追及もさることながら、「妻」に対する「補償」を粘り強く求めた闘いが、従来の労働運動をこえた「再生産労働」者の闘いであるというところに論議が集中した感じだった。このことは現時点での資本・国家との攻防が「生の再生産」領域にあることから言えば、しかるべきことだったのだろう。

● 「フリートーク」でまったく触れられなかったのは、「坂口ワールド」が、秋元~松尾~石牟礼をめぐって構成されていることについてだった。その構成に言及しないでは、「坂口ワールド」を見た・聴いたことにはならないのではないか、また、それは「坂口ワールド」の入口の言葉・出口の言葉は受け止められなかったことになるのではないか?
「修羅の女」とは、この世界の底で喘ぐ者が息を継ぐ・生き継ぐことができるように寄り添い、全世界を相手に闘う者(女)ではないのか? そのようにして寄る辺のない魂の生の継続・持続を可能にする生・命の繋げ方を生きるものなのではないか?

● ・・・・なんとも形容しようもない時空をただよいながら、もしかして、「現代」では、まれな「歩き巫女」の誕生に出会っていたのではないか・・・

米騒動
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